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悼王 (楚) : ウィキペディア日本語版
悼王 (楚)[とうおう]

悼王(とうおう、紀元前422年 - 紀元前381年、在位:紀元前401年 - 紀元前381年)は、中国戦国時代の王。呉起宰相に任じて楚の中央集権化を推し進めて大国に成長させた。
== 生涯 ==
父は先代の声王。紀元前402年に声王が賊に暗殺されたため跡を継いだ。楚は平王の時代にの侵略を受けて衰退していたが恵王の時代になって北上を開始し、領土を泗水にまで拡大していた。悼王は歴代王の方針を受け継いで領土拡大に積極的だった。
この頃、では将軍の呉起が宰相の公叔と対立し武侯とも折り合いが悪くなって出奔して楚を頼った。呉起はかつて楚将の熊禕率いる軍を長平河南省許昌東南部)で破った仇敵だったが、悼王は逆にそれで呉起の能力を認めていたため、楚を頼ってから数ヶ月して宰相に任命した。悼王は呉起を厚く信任して全てを任せていた。当時の楚は豪族の連合体制で王の権力も決して強くなかったが、呉起は国政改革を行なって王の中央集権化を目指した。一方で呉起に軍事も任せて楚の北方にあるを服属させ、三晋(魏・)の連合軍を破り、軍を破って秦将の王逸を生け捕りにするなどして勢力を大きく拡大した。
だが秦との決戦を行なわんとした直前に病に倒れ、前381年に病死した。享年42。死後、悼王の信任を得ていた呉起は改革反対派の貴族ら74家の軍に襲われ、悼王の遺体の前で射殺された。王の遺体にも20本に及ぶ矢が突き刺さっていたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「悼王 (楚)」の詳細全文を読む



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